学研まんが NEW日本の伝記8 伊達政宗オンラインブックダウンロード
学研まんが NEW日本の伝記8 伊達政宗
によって 梅屋敷 ミタ
4.1 5つ星のうち(2人の読者)
学研まんが NEW日本の伝記8 伊達政宗オンラインブックダウンロード - ※この商品はタブレットなど大きいディスプレイを備えた端末で読むことに適しています。また、文字列のハイライトや検索、辞書の参照、引用などの機能が使用できません。伝記まんがシリーズに、大人気武将・伊達政宗が登場。秀吉や家康に屈することなく、武勇と知略で戦国乱世を生き抜いた姿を描く。パノラマ大画面の合戦シーンも必見。巻末には、政宗が生きた時代の背景や、関連する人物などのくわしい資料を掲載している。
学研まんが NEW日本の伝記8 伊達政宗の詳細
本のタイトル : 学研まんが NEW日本の伝記8 伊達政宗
作者 : 梅屋敷 ミタ
カテゴリ : 本
ファイル名 : 学研まんが-new日本の伝記8-伊達政宗.pdf
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遅咲きの戦国の英雄・伊達政宗の伝記漫画。彼は生まれが西暦1567年と遅く、15歳で初陣を飾った翌年の西暦1582年に本能寺の変で信長が討たれているので、やはり他の戦国大名とはスタートで出遅れていた感があった。しかも、生まれた場所も奥州の名門である伊達家の嫡男の立場であったが、戦国時代の奥州は親戚同士の小大名が小競り合いを繰り返しており、なかなかまとまらない原因であった。当主・伊達輝宗の嫡男として期待された政宗だが幼い頃に疱瘡に罹患し、その影響で右目を失った。以後、性格が暗くなり母親も弟を溺愛して政宗を遠ざけるようになってしまう。そんな政宗を心配した輝宗が師匠として名僧・虎哉宗一(こさいそういつ)を付け、守役に生涯の重臣となる片倉小十郎を得た。水を得た魚のように成長した政宗は18歳で家督を継ぎ、周辺の大名家と干戈を交えてこれを打ち破っていった。しかし、伊達家に服属しようとしていた畠山義継が裏切り、父の輝宗を人質にして逃亡しようとした際に父を義継諸共討ち果たしてしまった。父の仇である畠山氏を討つために軍を起こすも、佐竹氏・蘆名氏が味方した反伊達連合軍は3万人を超える兵力。対する伊達軍は8千人ほどという不利の中での人取橋の戦いは政宗の生涯の中でも屈指の激戦であった。多くの家臣を失う中で持ち堪え、反伊達連合軍の結束が乱れた隙を突いて勝利を収めることが出来た。こうして奥州で200万石にも及ぶ領土を獲得した政宗であったが、戦国の世は終結に向かっていた。中央では織田信長の跡を継いだ羽柴秀吉が四国・九州を平定してようやく関東を攻めようとしていたのだ。関東の北条氏が討たれれば秀吉の矛先は奥州に向けられるだろう。それでは遅い。政宗は秀吉に面会し詫びを入れるために出立しようとするが、母親の義姫が実家の兄・最上義光に唆されて政宗に毒を盛って暗殺しようとしたのだ。解毒剤で一命を取り留めた政宗は争いの原因である弟・小次郎を成敗せねばならなかった。但し・・・小次郎は秘かに逃がされたような形跡が見受けられる。資料の中には政宗による小次郎殺害の形跡は確認できず、後に政宗が東京都あきる野市にある大悲願寺という寺を訪れており、その際に住職に贈り物をしている。この大願寺の15代目住職の秀雄が、政宗の弟の小次郎だというのだ。また、母親の義姫とは義姫が実家の最上家へ出奔した後も手紙のやり取りが継続しており、その内容はお互いを思い遣るような愛情のある内容となっている。家中を納めるために政宗・義姫・小十郎で芝居を打ったのだろうか?その後、秀吉に臣従して豊臣政権下で存続する伊達家だが、政宗には度々お取り潰しの危機が迫る。秀吉に臣従した際に召し上げられた旧・蘆名領に入った新領主に対する一揆を背後から支援していた証拠を秀吉に握られて詰問をされる。政宗は黄金の磔柱を用意して申し開きに出向き「花押(サイン)のセキレイの目に穴が開いていないものは全て偽物である」と言って許されたものの、国替えでその一揆の起きている蘆名領に移されて自身が援助した一揆を今度は自分で討伐せねばならなくなるなど、この辺りはやはり秀吉が政宗の上をいっている。さらには秀吉の後継者と目されていた豊臣秀次と親しくしていたが、その秀次が秀吉に息子が生まれると疎まれるようになり、謀反の疑いを掛けられて切腹させられる。政宗は連座で改易される危険があったものの、「両目の開いている秀吉が秀次を見誤ったのだから、片目しか見えない自分が見誤ったとして何が悪い!」と開き直り、またも無罪になった。この辺りの政宗と秀吉の関係は「秀吉の派手好きな性格」をよく理解していた政宗と、そんなやんちゃな政宗に「かつての主君である織田信長の若き日の姿」を見ていた秀吉という構図が浮かび上がる。要は「性格的にウマが合って、お互いに油断できないと思いながらも認め合っていた」ということだろう。事実、政宗も秀吉から拝領した刀を生涯大切に持っていたそうである。晩年、秀吉は無理な朝鮮出兵を強行するなどし、茶道の師である千利休を切腹させるなど失政が目立ち、多くの大名が秀吉を見限って№2である徳川家康に心を寄せるようになっていた。そんな中でとうとう秀吉が没して、長かった朝鮮出兵も終わり帰国した政宗に徳川家康と石田三成を中心とした反徳川家の動きが目立つ中、会津の上杉景勝を討つための挙兵に乗じて石田三成は反徳川連合軍を挙兵させる。政宗は家康に味方して会津の上杉軍を最上家と共に抑える役目を担った。最上家からの援軍の要請を政宗は拒否できない。何故なら、最上家には母親の義姫が身を寄せていたからだ。肝心の天下分け目の「関ヶ原の戦い」も僅か1日で徳川家の大勝利で終わり、ここに徳川家の天下は確定した。15年後の大坂の陣で豊臣家は滅亡した。晩年、政宗は仙台の統治に力を入れて外様大名ながら別格の扱いを受けた。生まれが遅かった政宗は二代将軍・秀忠、三代将軍・家光の代まで仕え、戦国の生き残りとしてその強烈な存在感を最後まで失うことはなかった。天下取りを望みながらも天下を取ることは出来なかった。しかし、秀吉・家康を間近で見てきた政宗には天下人の孤独がよく理解できたはずだ。翻って自身を鑑みてみたとき、家族や家臣に恵まれた生涯であったことを意識し、愛されていないと思っていた母親の義姫とも最終的には和解することが出来た。「天下を得ずとも満足のいく生涯」であったのではなかろうか。
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